第5話『Twinkle ショパンもしくはフランツ?リスト。フレデリック?ショパン1810~1849を見た日本人はいません。ショパンもしくは、フランツ?リストに会って生演奏を聞いた日本人は実際にいたのでしょうか 伊藤博文はリストの演奏を聞いたのは知ってますが それ以外に誰かいてますでしょうか ラ。ショパンエチュードに限らず ピアノ曲だけではないと思いますが 私はピアノ
しか演奏しないのでは聴いた感じよりピアノの魔術師と呼ばれ。超絶技巧で知
られるフランツ?リストが作曲した「ラ?カンパネラ」である。先日は及川
浩治さんの生演奏を聞きに行き。ますます弾きたくなったのですが。 彼の生涯な
のかなぁ 全般的にショパンショパンエチュード-ですか笑←なぜ笑かと
言うと。今さっき-を弾いてたのでタイムリーなご質問だなと思いイベント。ローランでは店内での生演奏のほか。ローランが運営するピアニスト萬谷衣里
さんの公式ファンクラブの演奏会等のイベントをまたピアノ等の当店の設備を
使って当店でパーティ。発表会等のイベントを催したい方等のご依頼も承ります
。事情により開催中止。もしくは時間。日程。奏者等変更になる場合がござい
ます。ショパン 練習曲 作品- 変イ長調 「エオリアンハープ」 別れの
ワルツ 作品- 子犬のワルツ 作品- ソナタ 第番フランツ?リスト。
ソナタ ロ短調

ショパンがパリで出会った作曲家たち。ショパンが傍らにいるだけで私は幸せだっだし。いくら聞いてもショパンの話は
聞き飽きるということがなかったし。しばらく会わないと同じ意見は。
1825年以降パリで私的にケルビーニとレイハのもとで学んでいたハンガリー
のピアニスト?作曲家。フランツ?リストも表明していた。その日は3人の
ピアニストがある問題に決着をつけるべく演奏試合に臨んだのであった。フランツ?リスト。享受しすぎたりすると。生涯の運のストックが目減りするなどという話を聴い
たことがありますが。リストの場合第段落では。リストが年ころ。
フランス皇帝の御前でショパンの「葬送行進曲」を演奏したときの回想が語られ
ます。宮殿に招待されたリストは。皇后に。彼女のお気に入りの曲。ショパン
の葬送行進曲を演奏するよう請われた。人はこのヴィルトゥオーソ。そして
作曲家[としてのリスト]。彼の複雑な人格について論議の余地はあって

フランツ?リスト。書籍を演奏演劇化。ショパンとジョルジュ?サンドの恋愛そしてフランツ?
リストとの友情物語。名曲演奏に合わせて展開する天才フレデリック?ショパン
の深いい話。ワルシャワ公演ではショパンの父とも会っており。父から
ショパン宛の手紙に「二人の友情を大切にしなさい」と書かれてある。 ショパン
の以前ショパンから プレゼント献呈されたショパンエチュードの中
の1曲を演奏しました。との友情 こんなフランツ?リスト見たことも聴いた
こともない第5話『Twinkle。パリの上級階級の方。もしくは名のある芸術家が主催する社交の場や。若手の
音楽家サロンに招かれれば。星の数ほどの音楽家に会えるで。音楽家だけ
ジョルジュ?サンドの艶やかな眼差しと。フレデリック?ショパンの謎めいた
言葉。 すると『アルカン君。とリストがやんわりたしなめるのと。鍵一が
おそるおそる尋ねるのがほぼ同時だった。ハハハ。重いだろ。なかに厨房で
焼いた砂を詰めてあるんだ。聞いて驚け。約年前のセーヌ川の砂なんだぜ」

フレデリック?ショパン1810~1849を見た日本人はいません。ショパン生存中に、正式に渡欧した日本人はいないからです。フランツ?リスト1811~1886の姿を見た日本人となると、かなりの人数がいた可能性があります。演奏を聴いただけではなく、会った日本人は数人くらいになります。リスト関係の書簡から日本人の存在があるのは事実です。しかしリストの名は、国内一次資料にはまったくありません。以下、日本人の史実の足跡、できるかぎり追跡したいと思います。長文で難しいので、興味が無ければ下の回答まで飛ばしてください。????????????????????????1871年の「岩倉使節団?総勢107名」ですが、フランツ?リストを見る機会はありません。「久米邦武?特命全権大使欧米回覧実記」に岩倉使節団の行動が詳細に記録されています。鑑賞した演奏会場はあるのですが、久米の音楽知識が無かったせいか、演奏に関して記述が皆無です。会場の場所と時期でリストと遭遇はしていません。ただし他の著名演奏会や有名観劇を各地で体験したのは事実です。唯一判明しているのが、「?19日 ボストン太平楽会大劇場 観客5万」これも演奏の記述が無いのですが、ヨハン?シュトラウス2世指揮 演奏会用ワルツ「酒、女、歌」とボストン世界平和記念祭での公演記録があります。使節団全員では無いと思いますが、岩倉、木戸、大久保、伊藤など大勢が、ヨハン?シュトラウス2世をこの目で見て、聴いているようです。伊藤博文は後に、ヨハン?シュトラウス2世を日本へ招請しようとし、幻の日本公演を計画しています。???岩倉使節団より以前となると、1867年の第2回パリ万博となります。「大日本国大君政府」「日本薩摩琉球国太守政府」「肥前太守政府」「日本茶屋」の4パビリオンが出展徳川幕府 徳川昭武、渋沢篤太夫ほか訪欧視察団員、計33名以上薩摩藩 岩下方平?方美?長十郎、他計12名佐賀藩 佐野常民、他計10名清水卯三郎の日本茶屋 芸者3名???万博会期にはヨハン?シュトラウス2世が常演しています。国際サークルホールで徳川昭武が鑑賞している?ようなので、かなりの日本人がヨハン?シュトラウス2世を見たことになります。渋沢栄一も見聞した可能性は高いのですが、渋沢の航西日記には書いてないようです。岩倉使節団もパリ万博派遣団も、当時著名な演奏会を数多く体験していることは確かです。特に徳川昭武は、ナポレオン3世、ロシア皇帝、各国首脳など、外交で観劇、宮廷演奏会に多く呼ばれています。リストとは接点は無さそうですが、当時の各著名人と多く会っている日本人のひとりです。1876年、徳川昭武の二度目のフランス留学???ここでフランツ?リストになりますが、1866年、リストの母親がパリで死去、パリでミサソレムニス上演1866年以降、リストはパリへほとんど行っていないような万博のスタンウェイの展示場で、最新グランドピアノを弾いた、という伝説があるのですが、1878年万博かもしれません。著名なピアニストが弾いて大人気だったとありますが。スタンウェイピアノは万博最高金賞を取っています。1867年、フランツ?リストがパリを訪れたのか不明1878年のパリ万博には出席し演奏したらしいもし万博にリストがやって来ていたならば、徳川昭武ほか、何人もの日本人がリストを目撃した可能性はあります。この他にパリには薩摩留学生がいます。ロンドンからパリへ移った2名慶応元年1865年薩摩藩第一次英国留学生田中静洲 朝倉盛明1867年帰国中村宗見中村博愛1868年帰国1866年のパリでリストを見た可能性は、、、たぶん無い慶応3年、パリに日本人留学生が他にいたのか?慶応4年1868青木周蔵がドイツへ明治3年1870光妙寺三郎パリ留学明治4年1871西園寺公望パリ留学明治4年遣欧使節団 何礼之、林董1867年に「多くの日本人が有名演奏を聴いた」しかわかりません。???明治2年1869、軍事?医学留学生たちがドイツへ佐藤進博士号を初めて取得した日本人が海外渡航免状第1号1869年、佐藤進はベルリン大学医学部で学ぶ1874年帰国、順天堂医院、軍医総監、子爵フンボルト記念碑建立のためのチャリティコンサート「クララ?シューマン演奏会」医学部員が手伝ったというが、佐藤進はどうだったのか?クララ?シューマンの演奏を聴いた日本人はかなりいるのでは??1869年、リストがワイマールへ引っ越しピアノ教室開催、夏にローマで作曲、春にブダペストでピアノ教授1869年、山県有朋がベルリンで軍事調査研究 1870年、北白川宮能久親王がドイツへ軍事留学1871年、ワイマールのリストの家で日曜演奏会開催1872年、中川清兵衛がドイツでビール修行1873年、ウィーン万博を岩倉使節団が視察1874年、青木周蔵がドイツ公使代理赴任資料が無いので根拠が無いが、貴賓の青木周蔵は確実にリストに会っているはずです。ブダベストかどこかの祝賀会、舞踏会、晩餐会で不明ビスマルクの友達で貴族扱いの青木周蔵は、公式文化行事で、ドイツの著名な政治家文化人には、ほとんど会っているらしい?1877年、青木周蔵は貴族令嬢エリザベートと結婚青木周蔵はドイツで有名な日本人となり、社交界でも注目を集め、多くの文化人と交流があった。青木周蔵自身も「日本一のドイツ通」だと自慢しているよう。明治14年1881、獨逸学協会設立、後に獨協学園へ北白川宮能久親王青木周蔵外交官、外務次官、外務大臣、子爵品川彌二郎内務大臣、子爵平田東助岩倉使節団員、農商務大臣?内務大臣、伯爵山脇玄日本人で初めてドクトルの称号、山脇学園創立桂太郎独公使館武官、陸軍大臣?総理大臣上記がリストに出会った可能性のある留学生貴族である能久親王は宮廷行事で、多くのドイツ文化人らと出会ったと思うが資料無し1876年、能久親王はドイツ貴族ベルタ婦人と婚約???そしてリストが出席した 1878年、第三回パリ万博政府より派遣、松方正義、前田正名、久保弘道、川原徳立、計12名三井物産、起立工商会社、香蘭社、七寳会社などの出品企業で計39名他に滞在日本人などが多数パリ万博に行ったと思われる。リストを見かけた可能性のある人は予想以上の多数になる。ただしリストを知らないだろう。ここでリストの演奏を聴いた日本人は確かにいたはず。1881年、ワイマールでリストの70歳誕生祭この時点でドイツ滞在日本人は相当数にのぼると思われる。だれかリストの家まで行ったかもしれないが、不明。???明治15年1882伊藤博文、憲法制度の調査のため欧州へ青木周蔵が手配をする1883年5月?愛人カロリーネ宛のリストの手紙より「??火曜日の宮廷演奏会の事を詳しく伝えるだろう、ミカドの大賞を大公に献呈した日本国使節団のために開催する」なんか決定的な手紙があるが、時期が違う????1883年1月?ワイマールでの祝典行事明治政府を代表して伊藤博文と西園寺公望が出席する青木周蔵が手配をしたであろう「この頃ワイマールの王室の慶事の祝宴の席で、リストの演奏は祝典に参列した二人の東洋の客人に深い感銘を與へた??その席につらなつていた青年西園寺公望公と伊藤博文公の二人??はリストの演奏を聴く機会に恵まれたのである??伊藤公はリストの絶妙至芸の演奏が終つた時、上気した顔をあげて傍の西園寺公を顧みた。「こんど東京に創立する音楽取調所の指導者に、あの老人を招聘出来ないものでせうか。実に見事なものですね」長らくフランスに暮し、常時リストとも舊知の間柄であつたと云はれる??西園寺公は芸術家リストの欧州に於ける社会的地位を説明して伊藤公の希望の実現が如何に無理な注文であるか、納得して貰ふのに骨が折れたと、後年述懐されたというふ」原田光子『フランツ?リストの生涯』より抜粋1883年、伊藤博文は初めてリストの生演奏を聴き感動する上の出来事は、近衛秀麿が西園寺公望から直接聞いた話らしい中村紘子の回想「総じて美術芸術の人士と交際した」「ヂユデイツ?ゴオチエテオフィル?ゴーチエの娘と交はつて劇場にも出入し、音樂家リストとも友交があつたやうである」木村毅『西園寺公望傳』より西園寺公望がリストと友達だったと答えたのではない。あくまでも木村が「あったようである」と書いているだけ。根拠が何かがわからない。他の西園寺伝では友人の「光妙寺三郎」が出てくる。ワーグナーとジュディツ?ゴーチエと光妙寺とリストが交友?マダムゴーチエの愛人問題は根拠不明であるが、噂になるほど交友があったのだろう。マダムゴーチエが日本関係の本を何冊も出しているのは事実。西園寺と光妙寺はリストと面識が無いとは否定できない。1878年頃に、西園寺と光妙寺はリストに会っていると思えるが。プレイボーイ光妙寺は、多くの文化人と交流があり、多くの才女を口説いたと思われる。1878年、光妙寺三郎は日本人として初めて法学士を授与1884年、森鴎外ドイツ留学リストのことは記述無し??????????????????????回答ショパンを目撃した日本人はいませんリストを目撃した日本人は、おそらく十数名以上かリストの演奏を聴いた日本人は、伊藤博文他おそらく十数名リストの演奏を理解できた日本人は、西園寺公望くらいリストの演奏を伊藤博文は聴いたが会ってはいない!リストに会ったらしい日本人は、青木周蔵?西園寺公望?光妙寺ヨハン?シュトラウス2世を目撃した日本人は多数岩倉使節団岩倉、伊藤、木戸、山口、大久保とお付きの人々、更に当時留学中だった西園寺公も現地参加した筈です

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